長野県木曽福島の実家とその周辺にて 昭和三十?年頃

週間まつもと「故郷遠望」記載記事より
 私は、木曽福島で生まれ中学まで家族と過ごし、叔母の家にお世話になりながら松本の高校に通いました。それから、奈良、京都で過ごしたのですが、高い山の見えない暮らしに慣れるのにしばらく時間がかかりました。今は、東京にいますが、信州に帰ると山が見えるだけでほっとします。
 私の生家には、「春風」という名前の木曽馬がいました。玄関の土間の向こうに馬屋があり、同じ屋根の下で、同じいろりの火を見ながら、春風と暮らしていました。鶏もいたし、山羊もいました。そして、「お蚕さま」を飼っていました。その季節になると、広い家の2階は全部蚕のために使われ、1階の3分の1も蚕に占領されていました。しゃかしゃか、しゃかしゃかという蚕が桑を食べる音、蚕のにおい、桑のにおい、「つぶすなよ」と言われているのに、蚕を踏んでしまったあの感じ、祖母がまわたを繭から引き延ばして作るのをじっと見ていたあの頃、、、。家であお向けになって屋根にあたる雨音を聞くのが好きでした。というのも雨の日は、父や母が田んぼや畑の仕事ができずに、家に早く帰ってくるからだったような気がします。
 思い出がたくさん詰まった、その家を、実家の事情で壊すと聞かされたときは、看病していた母の余命を病院で医師からつげられたときと同じくらいショックでした。今ではもう作ることのできないようなその家は、大工だった祖父のまたその祖父の父が建てたものでした。それが、この世から消えてしまうなんて、、、。もう私の力では、壊すのをやめることはできない。だったらせめて違う形でも残したい。なんとかして生かしたい、という思いで誰か使ってくれる人はいないだろうかと、いろんな人に声をかけてみました。けれども、興味は示しても具体的に動いてくれる人は見つからなくて時間だけが過ぎていき、いよいよ、実家から、クレーンが来て壊すからという電話をもらいました。
 どうしよう、何か生き残す方法があるはず。友達が教えてくれた電話番号のメモを思いだし、相手のこともよくわからずに、何にも知らない人にこんなこと相談してもいいのだろうか、突然電話をして話をきてくれるだろうかと迷った末、電話をしてみました。もう、最後の頼みの綱。ここでかけなければ家が死んでしまう。必死で説明しました。相手の方は、松本で建築設計事務所を開いて古い民家の再生の仕事を熱心にされている方でした。早速時間を作って明日家を見に行ってくださるという。涙が出るほど嬉しく思いました。
 その方は家を見て「立派な、140年ほど前に作られた蚕室づくりの家ですね。これからも100年以上は充分に生きられる家です。まだまだ生きたがっている気がしますよ。」とおっしゃって運命を変えてくれました。その方の説得で取り壊しが延期され、使える材料を使って他の土地で再建されることになりました。話をまとめるのにたいへんな御苦労があったようです。そして約5年間材木のまま大切に保管されていた家が、いよいよこの9月に、鹿教湯温泉の旅館の1部としてよみがえります。そこには、松本の古い蔵も一緒に移築されるそうです。
 元のままの形では、残してあげられなかったけれども、あの家が旅館として生まれ変わって、そこを訪れるたくさんの人々をいやし、喜ばれながら生き続けてくれる、こんなに嬉しいことはありません。
 家の運命を変えてくれたその方は、あとでわかったのですが、高校の先輩でした。そして私が、テレビで見てこんな人と知り合えたらいいのにと願っていた有名な建築家のもとで学んだ方でした。本当にこの出会いに感謝しています。
 この家は、人が真剣に本気で、純粋な気持ちで何かを望み、祈り、行動すれば、願いは叶うということを教えてくえました。今、私は、かつてその家の馬屋のあった場所で書いています。感謝の念でいっぱいです。


依頼された文章の倍の量を書いてしまいました。記事にならなかった後半です。

 木曽の美しい自然の中で生まれ、子供時代を木曽福島で過ごしたことが私の踊りを支えてくれています。
ブタペストの舞踏フェスティバルに参加した時のことです。公演前の緊張や人間関係のことで眠れない夜を過ごした公演前夜の朝に、夢を見ました。
 越畑(生まれた所の地名)でみんなが稲刈りをしています。真っ青な空の下で稲穂が風にそよいできらきら光っています。亡くなった母が、その稲穂の間で座って休んでいて、実りを喜んで本当に嬉しそうに笑っています。近くには、あの木曽の家が大きく見守るように構えていました。
 それを見て私もとても嬉しかった。私は、両親は農家の仕事をとても苦労してやっていていつもたいへんだと思ってました。でも、ああ収穫の時はこんなに喜びがあって嬉しかったんだ、ああよかった、と思いました。そうか、私の創った踊りの作品をみてもらう、これは、母の収穫の喜びと同じ気持ちで良いはずなんだ、と気づきました。夢から、前向きなちからをもらったようでした。そして無事に公演を終えることができました。


この記事を読んだ木曽福島町のまちづくり推進室の方が働きかけて下さって、私を母校の木曽福島の小学校のダンスのワークショップに講師として呼んでいただきました。(2003/6/13)

木曽福島小学校と上田小学校の6年生達とのワークショップ

この日のテーマは、「感じる」、「勇気を持って挑戦する」。


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