2002.10.18チュニジア新聞の訳


(チュニジア新聞) La presse de Tunisie 18.octobre 2002 (444k)

現代造形による典礼
 カルタゴのアクロポリウムにて、伝統となった「10月音楽祭」の一環として、天台宗の僧侶達が音楽を演奏した。その音楽は大昔の仏教が起源であり、仏教音楽は今もごく自然に日本に根付いている。2002年10月16日火曜日、聴衆は、嬉しい驚きを絶え間なく味わった。その夜の、日本現代音楽は、日本独自の宗教と現代性が組み合わされた日本の遺産として、注目に値するものであった。
 ビュルサの丘を光が満たしていた。光は絶え間ないリズムに合わせて、暗くはるかな空を貫いた。「シディ・ブ・サイド」の灯台のようである。アクロポリウムの会場前はたくさんの車で混み合っており、いつもは鐘を鳴らして圧倒的な存在感を示す荘厳な建物も、静寂を失っていた。男女の集団はもう我慢できずにいた。ようやく会場にたどり着いた聴衆は、荘厳さを保ち続けるアクロポリウムの内部へと至り、この日本の音楽にめぐりあうことが出来た。
 そして、演奏が始まった途端に、荘厳な会場の中の聴衆は、極東から来た音楽の精神に多くの共感を持つこととなった。音楽は世界の共通語であり、そのメッセージは楽器により伝えられるだけでなく、その場に居合わせた聴衆のその時に見た景色、過ごした時間、感じた思いと共に伝えられる。それはもはや音楽というものではなく演劇なのである。
 この夜、日本音楽の演奏会に居合わせた音楽愛好家達は、この音楽を西洋の音楽よりも、アラブの音楽に似ていると感じた。言葉、リズム、母音を用いた発声、声を区切る方法など、アラブ音楽に共通する部分が多い。実際、この音楽は、中国、インド、日本を含む仏教国の仏典の中に起源がある。古代インドでその音楽の典礼は「聲明」と呼ばれ、僧侶達が修行に使っていた5つの規律の基礎となる教本のうちの一つであったが、それが、現在演奏されている天台宗の音楽の基礎であると考えられている。
 日本の天台宗の開祖は最澄(伝教大師)である。その後、最澄の高弟、円仁(慈覚大師)が唐(中国)で聲明を学び、847年に日本に戻り、「天台聲明」を確立した。今日、演奏会に参加している僧侶達は、天台崇拝、神秘主義崇拝の中心的存在となっているのである。
 これは、伝統的な音楽であり、私達には、侵略の歴史であるキリスト教徒のグレゴリオ聖歌とイスラム教徒の苦しみの歌と並んで、東洋人が浸透させた典礼と宗教の音楽として位置付けられ、その歴史と質の高さは高い評価に値するものなのである。さらに、日本は、東洋と西洋のあらゆる国を知っており、これまでの自国の伝統に諸外国の文化を含む現代の要素をうまく結合させているのである。
 会場の中で私達は、ギタリストの小馬崎氏の演奏により、仏教と言う階層社会の厳格な世界の中に誘われている。小馬崎氏は、十年以上前から、神秘的な仏教音楽とギターの旋律とを相互浸透させて演奏しており、この世界において先駆者的存在の人物である。これは、決して常識はずれのことではなく、むしろ、文化と文化が出会うことで音楽が豊かになること、文化と文化を融合させることが、それぞれの文化を豊かにするであろうことを確信しているチュニジアの音楽愛好家達は、唯一自国文化を守ってきた日本文化と異文化との対話を、高く評価していたのである。日本で最初に楽譜ができたのは1472年であったが、我々は、日本だけが外に開かれていなかったこと、伝統文化の消滅や祖国喪失の歴史がなかったことから、その文化が止むことなく発展してきたという点に注目しなければならない。
 その夜、チュニジアの音楽愛好家達は、かつて経験したことのない楽しい一時を過ごした。彼らにとって、それは全く新しいというよりは、大地、水、空気、火、という人類が共有する魂の基本要素の解放であること、混じりあいであることから、アラブ独特の文化と日本の文化の中に、魂という共通する部分において、彼ら自身を再発見することができた夜でもあった。チュニジアの音楽愛好家達は、日本の文化、文明に深く根付いた人類の財産であるその夜の音楽に対して、彼らがどういうふうに関わり、どういうふうに結び付いているかを模索している最中であり、一生懸命に「試みている」という段階にあったといえる。
La Presse de Tunisie  2002/10/18 written by Mr.Nejib GACA 翻訳 山田真也
<チュニジア新聞に書かれている史実の誤りはこちらで訂正しました。>



共同通信社により10月中旬から11月中旬にかけて、京都新聞11/6、北日本新聞、愛媛新聞11/18、南日本新聞11/4、徳島新聞11/13、中国新聞11/4、日本海新聞10/23、岐阜新聞11/9、佐賀新聞10/28、三陽中央新報11/25、静岡新聞10/28、ほか多数の地方紙に配信され掲載されました。


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