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我が家の介護日誌 第13章
介護とストレスと不思議体験(亡き父との再会)




浅川太陽光発電所
所長 浅川 初男

我が家の介護日誌第12章で、母からの言動によるストレスがあったことを紹介致しましたが、その変調と私の体に生じた身体的変化を紹介致します。


日頃の、母とのやり取りで、精神的に疲れたのと、体調不慮による病状変化に苦慮している中で、農作業と平行して、自営業を営み、それらの時間のやりくりの中で、季節に合わせての、農作業は、ある意味集中して、体を酷使することになります。
そんな農作業の中で、平成25年度の農作業は、2週間遅れで、規模縮小と、転作面積拡大により、農作業の軽減を図りましたが、季節の変動に合わせて、乱高下する気温と、気圧の変化に着いて行かれず、どうしても体調がすぐれませんでした。   ただのストレスとして片ずけて、いたのですが、
それは、思わぬ格好で、突如、体調変化として現れたのです。
トラクターで、田圃の耕運作業中でした。突如の吐き気と、目眩に襲われ、
トラクターに乗っていられないのです!!!。
突然の吐き気で、トラクターを止めて
嘔吐し、体調が整うまで休憩致しましたが、
一向に好転せず、作業は、途中で止めて、
やっとの思いで、帰宅。




結果として、1日で終わる作業が3日係ることになりました。
トラクターは、友人宅から借りておりましたので、友人は一早く、私の体調変化を心配して、声えかけをしてくれました。
何とか、春先の農作業は規模縮小で乗り切ったのですが、自然は待ってはくれません。農地の周りの土手草刈りが迫ってきます。
土手草を刈り始めると、すぐさま体調変化が襲ってきます。
農機具を使い、草刈りをするのですが、右脇腹に鈍い痛みと、吐き気があり、短時間の農作業しか行えず、草刈りも、通常の作業時間の3倍以上の時間をかける結果になりました。   一通り、作業が終了した時点で、病院に。
病院で、診察を受けたところ、骨や筋肉には異状は確認できず、とりあえず湿布と痛み止めを処方していただきましたが、痛み止めを飲んだり、湿布をしても、一向に痛みが無くなりません。医師の勧めもあり再検査をしても、原因不明。そんな時、市が行う集団検診の結果が届きました。そこには、慢性肝炎(ホアグラ)になりつつ有るので注意と、胆石の疑い有りと、記されていました。
早々に、診断結果を持って、病院で再度診察を受け、超音波にて見たところ、確かにあります。画面に映る白いもの、これが脇腹の痛みの原因?、大きさから見ると砂粒ほどの物、それほどのことは無いので、経過観察となりました。
相変わらず脇腹の痛みは続きます。病院通いが、頻繁するので、母も気になったのか『無理をしないで、農作業を早くやれと』、無理を言います。
相変わらず、気候変動と、リンクする体調変化と、トラクターでの農作業は吐き気に見回れたので、トラクターでの農作業は、全て友人に託すことで、夏場の農作業は乗り切りました。
そんな、私の行動を見ていた母は、私が仕事で家を留守にするのを見はからい、庭先の畑に出て、私に見つからないように、畑に入っていたようです。
仕事から、戻ると、母がいないので、家の周り、御近所さんを探しましたが見つかりません。もしやと思い、畑の中をのぞくと、隠れるように母がうずくまっていました。急いで止めさせると、すごい形相で私をしかります。


『お前がやらないから、年老いた私がやっているのだ、感謝しろ!!!』です。


初夏は、母の具合も良かったので、私の仕事量を増やし、日中留守にした結果、
母が、畑への出陣という行動でした。
母は、自分でやった農作業に満足している様子でしたが、通常はやらなくて良い作業でした。どうも、体調が良いので、畑仕事をしたくて、しかたなかったようです。母の記憶には、この時期は、畑仕事と記憶に刻まれているようです。
私が仕事に出るのを待って、畑に出たようです。
初夏の訪れと共に、妹家族が孫を連れ訪れ、母の状況を説明すると、畑は、私たちが手伝うので、安心して仕事へ出かけて下さい。 母を見ています。
今年の夏は、妹家族のおかげで2週間ほど母から離れることができました。
しかし、妹家族が帰った後、秋の気配が漂うと、初夏の疲れが出たのか、温度変化が激しいと、体調を崩し、ベッドに横になる日々が夏中続きました。
この間、私は、十二章で紹介した泥棒扱いを常に母から受けていました。
精神的には、これが一番、堪えました。



秋になり、何とか、収穫を終えた頃、私の体調にも変化がありました。
母と同様に季節変化を、モロニ受け、体調不良になり、些細なことで、母との言い争いが絶えません。疲れます。
そんな時は、こちらを見て和みます。


2007 Hula Halau o Kamuela, ‘Auana
https://www.youtube.com/watch?v=UK04zc8Qurw


体調の崩れ


脇腹に、常に鈍痛を感じるようになり、定期検査時の超音波検診で、確かに胆嚢の中に大きくなっている物体が見えたので、さらに詳細な診断をと言うことでMRIとX線CTを受けたならば、

現在治療中の他の病気のX線CT検査の時に、お会いした技師さんでした。
私の顔を見るなり   『この間受けましたよね!』
と声をかけていただきましたので、今回は、検査部位が違うのでよろしくお願いします。と、ドーナツの中に約1時間、首から股間下まで、音はしょうがないとしても、造影剤が体内を回ると、異物感知で体の中が急激に熱くなります。
検査終了と共に、検査技師さんから「前回受けた時には、それらしき兆候は無かったのに!!」、と、不思議がっていました。確かにX線技師の方が覚えている、短期間での発病です。造影剤を体外に排出するために水分補給の点滴を受けながらトイレまで、移動していたならば、一般診療の方々から同情のまなざし?「若いのに」が、聞こえてきそうです。(若いので?)
(この時間帯に、診療を受けているのは、高齢者が9割以上、)
家に帰り、ガイガーカウンターの前に立つと、急激に数値が上がります。
朝には、この数値は下がり、造影剤は、前回のときよりも早く体外に排出されたようです。
総合検査の結果は、手術をすべき、との結果と相成りました。
胆嚢からの胆管の出口である胃からも検査
手術日程を決定して、詳細の検査を実施し、胆管の出口や胆管内で炎症があるかどうかを、調べるために、内視鏡(胃カメラ)を実施することになりました。
参考 オリンパス
こんなにコンパクトになっているとは思いませんでした。
はるか前に、胃潰瘍の治療時に、細胞診で引っかかり結果がでるまで、2週間以上、癌だったらと、心配し、落ち着かない日々を送ったことを思い出しました。
当時は、現在の物より、太く、カメラを飲み込むのに大変苦労をしたのを思い出しながら、受診。
心配した、飲み込みも楽にでき、さしたる抵抗も無く医師と一緒に会話(返事のみ)ができ、医療器具の進歩を体験することができました。


結果は、年齢相応の胃で、心配された胆汁の出口にも炎症の発生は無く、胆嚢内にある長さ約11㎜固まりの処理と言うことに、薬や衝撃波で細かくして、排出する方法もあるが、手術での処理がこの場合は、適切であるとの結論に。
あとは、手術に向けた体調管理として、ブレス(呼吸)の強化と言うことで、3つのボールが入った筒を、吹いたり、吸ったりして、ボールを一定に保つ訓練を実施することに、全身麻酔だと、自発呼吸が安定しない場合があるので、それを補うための訓練だそうです。術後も行う必要があると言うことで、器具の貸し出しを受け、自宅で練習することに。これがなかなか優れ物
吸い込む空気量と、吐く空気量の違いがハッキリとわかります。
いかに普段、肺の一部しか使っていないかがわかりました。
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胆嚢とは別に、気候変動ともに、下腹の膀胱当りに収縮があり、主治医に相談


再発か?


現在治療中の泌尿器科の治療で、昨年末から今年になって、頻繁に鈍痛が発生するので、高解像度の内視鏡検査を実施し、検査時に、前回の手術場所やその周囲を、私自身が、テレビ画像を見ても、疑わしい部位があり、心配になりながら、検査後、再度画面を見ながら、医師の診断を受けると、現状維持ではあるが、検査期間を6ヶ月ごとではなく、3ヶ月ごとにしましょう。と提案がありましたので、快諾しました。また、医師からの提案で、現在の症状緩和に効く薬があるとのことで、新しい薬にトライすることにしました。
漢方薬で、排尿を助け、痛みをやわらげる作用があります。
と説明にありますが、最も良いのが、老化にともなう全身組織の機能低下を補う作用があります。
若返りの薬?・・・・・・・?
と言うことで、私の病気は、老化によるもの?・・・・・?
いつも思うのが、となりの診療科には、若い人がいるが、私の通う泌尿器科には、私と同年代はあまり見たことが無く、やはり、漢方薬の効能にあるように、他の人よりも、老化が早いのかも、と、不安になる、漢方薬の効能書でした。
そんなとき、私にいやしを与えてくれるのがインターネットの動画です。
こちらの動画を紹介致します。


Merrie Monarch 2005 - Hula Halau O Kamuela - Wahine 'Auana
https://www.youtube.com/watch?v=YR0KgQQRKqo

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 私の、体調不良が続く中で、母の体調管理で驚きもあります。
今年になって、母の、入浴時に気が付くのですが、母の肌の張りが衰えていないことに、驚いております。
仕事先の宿泊先で、入浴時に、年配の方とお話をする機会があり、湯上がりで、のんびりくつろいでいるラウンジで、老化現象はどこに現れるか、等と言う話になり、頭髪と言っていたのが、女性陣。肌の衰えとシミと言っていたのが男性陣、かなり皆様老化については、気になさっているようす。
そんな話を聞きながら、母を当てはめてみると、確かに、今年になってから頭髪が薄くなってきているが、入浴時に母の背中を流しながら、私の背中よりきれいであることに気が付く、体全体は、小さくなっているのは気が付いていましたが、同年代の方の肌と比較すると、艶があるように見えるのです。
おそるべし、85歳であります。
しかし、体力的に見ると、とても元気な時と、全く動けない時が、天候によりハッキリしているので、心配な時もありますが、全般的に、精神的には、はるかに私より元気で、多少の惚けと、物忘れが頻繁するのですが、口では、かなう相手ではないことが、年配者のお話から判断することができました。
80代の皆さん元気です。


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私の体・・・介護側
もうすぐ、1年越しの脇腹痛とも、別れることができる。
入院の準備を進めながら、春を待つことにします。


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今日は、入院の日。予定時間に入院手続きを済ませ、手術前の説明を受けて、お昼ご飯に 「うどん」あまり食欲が無く、簡単に済ませ、午後の説明を受けていると、悪寒がしたので、熱を測ると、多少高め、何で?
入院予定の週は仕事もセイブし、前日は、2時間ほどの仕事にして、体調管理をしてきたのに、体温が高めとは、そんな話を医師と、していたならば、体温が急上昇、1時間の間に2度近くも。!!


担当医が37度だと、明日の手術は中止しましょう。


との医師からの提案がありました。瞬く間に、37度代を突破、手術は中止に。
(この時点で、妹に体調不良で、手術が中止になったことを伝える)
直ちに、インフルエンザの感染チェクと、血液検査を実施して、発熱原因究明を、入院初日から発熱が始まり、みるみるうちに体温が上昇し、入院の初日の夜には38度8分まで、上昇、急遽、体温上昇を抑えるために、アイス枕の使用を開始し、体温の上昇を抑える手配をします。体温が38度以上になると、意識が飛びます。概ね2〜3時間ごとにアイスパックの交換をしていただき、体温の上昇を抑え、原因究明を急ぎます。今回は、手術が目的の入院だったので、個室を用意していたので、排尿は個室トイレを利用できましたが、一昼夜後は、最悪、尿管を入れ排尿管理を行うことまで、考えなくてはならないほど、重症になってきました。意識が混濁した時は、適切な処置をとっていただくようにと、医師に相談しました。医師は家族の同意が必要と言う事でしたが、私が1人である事を告げて、対応をお願いしました。この間、体温の上昇は止まらずアイスパックは、頭だけではなく両脇まで冷やしています。体は、数時間ごとに動か無くなり、何とか食事だけは摂るようにと医師から言われていたので、やっとの思いで摂るのですが、体が言うことを利きません。
意識朦朧・・・・・・・・・・・・
     そんな中で、起こった、不思議体験(亡き父との再会)
私が3日間、高熱にうなされたその中で、信じがたいのですが、今まで、夢でも合えなかった亡き父に、今回、合うことができました。
再会は、ほんの短い時間、交わした言葉も、亡き父の語りかけに対して、私がただ一言、そのあと亡き父から、一言、懐かしい言葉ずかいで、一言、急に視界が開け意識回復、貴重な体験となりました。
この体験、不思議と、亡き父との会話は、懐かしく感じられ、ほっとした懐かしさと、なぜかしら、安心感に包まれていました。
あまりにも、印象が強かったのでハッキリと記憶しています。
どのような体験だったかを、ちょこっと、まとめてみました。
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38度8分の高熱にうなされた3日目頃に合った父は、若くて、私の子供の頃の父の姿で、真っ白い綺麗な布団が敷き詰められた光りに包まれた場所でした。
父と、2人で、大きな白い布団の上にいる場面から記憶があります。
私たち2人の周りは、霧のような白い光りに包まれていて、体全体は見えないのですが、父の他には、ぼんやりと布団の端に人影がある以外は、誰もおらず、暖かい光りに包まれた世界です。父が私(小学生くらいの私)に、今夜はここで、寝るようにと言うので、言われるがまま、布団に転がると、先ほどまで真っ白で絹のような布団が、いろいろな色に変化をし、高い場所から地上の夜景を見ているように感じて、幼い私は、怖くなり、父の言いつけに背いて、「ここで寝るのは嫌だと」父に言うと、父は、その横に、横になりながら、ただ一言「かってにしろ」と言って、私に寝るようにと言った場所の横に寝ると、白い大きな布団の中に、沈むように消えて行きました。
白い大きな布団に残された私は、父がいなくなると、眩しい光りに包まれ、白い光りが、やがて、病室の蛍光灯であることに気が付きました。それと同時に、もう少し、亡き父と話をしたかったという、懐かしさにとらわれていました。
『検温です!!』の言葉でハッキリとした記憶になりました。
体温が38度8分の、夢の世界の中で不思議な体験でした。
この体験をするまでの時間経過は、38度8分以上の熱が3日間以上続いた中でうなされながら、の体験です。この間、私の体調を心配した妹からの定時連絡の電話に対して、私は返答をしていたようですが、妹の、言うには、2日目からの返事は、妹の問いかけに対して、全く、的をえたものではなく、妹は、ひょっとしたならば、亡き父がそばにいるのではと、心配になったので急いで、妹の長男の車で山梨まで、予定を早めて、母のもとに来ていたと、電話での会話が成立するようになった時に教えてくれました。入院5日目の午後、妹が長男を伴い、病室を訪ねてくれたが、感染の心配が合ったので、数分の滞在となった。この時点でも体温は37度以上あり、三日間連続投与している、抗生物質も、なかなか効きめがハッキリしません。
入院5日目、この頃には、看護師さんとの会話も出来るようになり、その会話の中で、入院3日目の採血検査の時は、採血した血液が熱くて、驚いたと教えてくれました。6日目、7日目未だに体温は38度前半と37度前半を行ったり来たり、体温が正常にもどったのは、退院日の朝で、35度代で無事に9日目に退院することが出来ました。
今回の騒動で、本来の、目的の手術は先送りにして、体力回復につとめ、体調を整えてから再挑戦をすることにして、病院を後にしました。


思わぬ歓迎


無事退院をして、自宅に帰り、一晩を過ごし、朝、母の居る母屋に行ってみると、何か、お香臭い、不思議に思い、母に尋ねると、
『お金が無くなった』『泥棒を呪ってやった』です。
私が、家を長期に留守をすると、必ず私を泥棒扱いする母の言葉です。
入院・退院・泥棒扱い・・・・・・・疲れます。
こんな、日々が又始まったのだと、現実を受け入れるしかないのが、老後の介護、なのかも、と、思いながら、2014年春の介護生活の始まりです。


体調も復調し、何とか仕事に集中できそうなので、事務仕事をしていると、隣の母屋で、大きな音がするので覗いてみると、母の姿は無く、母屋の周りや物置の中も見ましたが、母はいません。もしやと思い、少し離れた畑を見ると、鳥獣ネットと電柵に囲まれた畑に母の姿が、畑から出るように説得するのですが、一筋縄ではいかず、けんか腰で、畑からの退去を、きつく言うと、
「お前がやらないから、年老いは母がやってやってる」「後はお前がやれ」
です。これが退院3日目の私に、言った母の言葉です。
このままでは、また体調を崩しかねないので、今年は全ての農作業は中止して農業はやらないと、母に言い渡した所、何とか畑から出て、家に戻りましたが翌日は、腰が痛いと言いながら、またまた、畑に言っていたようなので、母の背骨は一部、取り外してあるので、力のいる農作業をすると背骨が折れることを、伝えたのですが、それを不服のように
「お前がやらないから、年老いた母がやる」「畑が散らかっている、人目悪い」
「お前がやらないから、年老いた母がやっている、ありがたく思え」
と毒づいていました。
退院から2週間経ち、やっと体も復調したので、仕事に出かけると、その留守に母は、やはり畑に行ったようです。入浴の時の風呂桶に大量の土が残っていました。1人では入るのは、危険なのと洗髪と体を洗うのが不自由なので、一緒に浴室に入り体等を洗った後、手足の爪を切ると、ここにも大量の土が入っており、炎症をおこすので、せめて、手袋をして、庭先の土いじりで我慢するように、諭すのですが、またまた「俺が好きでやっている」「体がなまる」「家の中は嫌いだ」「外の空気が吸いたい」「庭を綺麗にしたい」などと言って土いじり。
朝、庭先から煙が出ているので、驚いて外に出ると、物置の横で母が雑草を消却している。周りは枯れ草が広がっていて、隣家まで続いているので、大急ぎで、消火すると、「邪魔をするな!!」「付いていて燃やしている」「危なくない」
「騒ぐほどのことではない!!」と言いますが、もう少しで、枯れ草に火がつく所でした。自分が思い立ったなら、なりふり構わず、実行する母の姿が、そこにあり、野焼きで、火災が発生していることも、気にも留めず、自分は大丈夫と思い込んで、野焼きをする85才の母の姿に、これには、私も驚いて、物置の周りから、隣家の垣根まで、10m以上に散水をして、火の気が無いことを確認して仕事に出かける準備をしていると、「もう火は燃さない」「早く仕事に行け」
です。とにかく驚かされる春の母の行動です。

(仕事先で見つけた水辺)


ほっとする景色です。


仕事から、帰ると母が家から飛び出すように出て来て、「農業(田畑)はどうする」「今年は、なぜ農作業を始めない」と責め立てます。
まだ体調が、戻っていないのと、体調を整えて手術を受けなくてはならないので、今年は、農作業は全て中止すると、教えたのですが、納得せず
「づくなし(なまけもの)」「根性なし」「いくじなし」「たるんでる」「荒れている田畑が人目悪い」の言葉が返ってきます。
私のストレスは、こんなところからも発生しているらしく、この後体調がすぐれず、妹に電話を入れて、愚痴を聞いてもらいました。




やはり、介護対象の肉親が、わがままを言うと、出来るだけ聞いてあげようとするのは、私1人ではなく、多くの家族も同じだと言うことが、親戚からの相談で、確認することができました。ある面安心するのと、お互い大変であると介護をする側からは、共感することが多々あり、お互いにエールを送るようなことに、わたしは、1人で1人の母を看ているのですが、幸いなことに母は、運転免許を持っていないので、交通事故の加害者になる心配は無いのですが、高齢者になっても、運転免許を持っている方は、体調が良いと、家族の隙をみて車を乗り出し、事故を起こしてしまう事があるようです。


高齢になると足腰が衰え、移動にはどうしても、自家用車が必要な地域では、高齢者の運転による交通渋滞が発生する事がしばしばです。
道路の真ん中をゆっくりと移動しながら、方向指示器を出さずに曲がったり、一時停止場所を、停止せず、そのまま曲がってくる等、色々あるのが、高齢者地域の交通状況です。信号を無視している訳ではないのですが、速度が遅いために赤信号でも交差点に進入したり、近づいてくる車の前に飛び出したり、夕方になってもライトを点灯せず走ったり、方向指示器を出したままの走行や、駐車場の身障者用の駐車施設に、堂々と駐車する等、したい放題になるのが、高齢者の運転に見られる傾向です。
これらの現象は、加齢による運動能力や記憶力の低下により、発生するようになるので、車を運転している方は、これらに注意しながら交通安全に努めなくてはなりません。これらの事が多々見受けられるようになった時、たいがいの家族は、運転を止めるように、お願いするようですが、この年代の方は、家に閉じ込められるように感じるために、かなりの反発と、いじめととらえるようで、家族に対して、きつくあたり、時には暴力まで、介護の難しさを考えさせられます。介護側としては、家族全体の安全を考える機会となり、車の鍵を取り上げたり、免許を返納させたりするのですが、この事で争いになり、同居している場合は、「出て行けと!!」と怒鳴る等、そのためにノイローゼになる介護家族がある事も事実です。


歳を取ると、経済性観念が無くなり、事故のときの対応が出来ない事、保障等の判断が出来ないことが、免許を持つ高齢者だけでなく、通常生活をしている高齢者も判断が出来なくなっている。まだ体は動く、身の回りの世話は、ある程度できる。たいして世話になっていない。など等・・・・
この年齢になると、介護側の気持ちなどは一向に考えない高齢者、加齢と共に子供に帰るとは、こういう事をいのかもしれませんが、介護する側からすると、危険きわまりない親の行動なのです。介護者はどこまで責任を持たなくてはならないのか? 介護に携わる家族の悩むところです。


自己中心的な老人行動は、そばに介護者がいるからであっての行動で、この春を迎え、我が家でも、畑に出たがる母がおり、その行動に一喜一憂する介護人がおり、また一つ、無事に春を迎えることができたかな!!!

春の出来事
2014.04
つづく。