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我が家の介護日誌 第二章
(原因判明・歩行困難)

 病院への通院を続けるも、一向に症状が快復する徴候が見えないまま日数が過ぎて行きましたが、病院への通院は、私が農業を職業としているので時間を自由に調整することが出来るので、農閑期は順調に治療に通うことができましたが、農繁期を迎えると病院通いに重点を置くためにどうしても農作業が滞り、田畑に雑草が目立つことになり、これが最悪の状態をまねくことに繋がって行きました。そうです、先にも紹介したように、私に隠れては、目立った雑草の草取り作業を近くの畑で行なっていたのです。私としては、病状の悪化に繋がるので、農作業はしないで下さいと言っていたのですが、母の性分では畑に草があるのが気になり、足腰の痛みは二の次になっていたようです。
 この頃、玄関の落差を和らげる為に、ホームセンーで材料を揃え、お手製のスノコをこしらえ、玄関に設置し、玄関の上がり下りが楽になったと皆様から言われ、今までかなりの負担があったことがわかりました。(我が家の介護作戦第一号です)


(写真1965)

私が農作業に出かけると、私のいない間に畑まで杖を使い出かけて行き農作業を行ない、気が付けば症状の悪化をまねいており、私の注意はどこ吹く風で聞き流し「畑に草がひどい」「誰が畑の草取りをしていると思っている」の返答が帰ってまいります。母には、自分の症状の悪化より、畑の作物が気になるようです。私は、これ以上母が、農作業に隠れて出かけるのを見過ごすことが出来なくなっていましたので、実力行使として、母が気にしていた田畑の一斉耕運を行ない、草取りが必要ないことを母に見せることにしました。

特に人目につく道路沿いの田畑は、母の一番気になる場所で、そこが耕運されていたことで安心した様子で、やっと、私が母の病状を心配していることが理解出来たようです。でも、やはり私の手の届かない近くの畑には、いくら言っても隠れて出かけて行く母です。ジャガイモの芽が出る時期になり、症状はさらに悪化してまいりました。ジャガイモの芽に害虫がつき、食べてしまうのに腹をたてた母は、杖をたよりに連日私に隠れて駆除作業に出かけて行っていたことを後で私は気付きましたがすでに遅し、母の症状は予測を反して、猛烈な勢いで悪化して行きました。

このころ、週一回の治療が、週2回、週3回と増えて行き、母が杖をたよりに歩行して畑に出かけることもついに出来なくなってまいりました。

家の中においても、杖をたよりに生活をするようになり、今までは自分の食事は自分で用意していましたが、台所に立つことも出来ない状況になって行き、何かあると必ず作っていた母の手作り「うどん(おざら)」は、私へとバトンタッチして体の不自由を訴えるようになりました。

親戚が、母の体調を心配して訪ねてくると、母は不自由な体を動かして「うどん」作りの準備をします。母がこの作業をはじめると、私はどこにも行かず母に手を貸して、うどんを作ることになりました。

母の、このような行動を知った親戚は、「不自由な体を使ってうどんを作るのであれば、遊びにこない」と母に伝えると「病人扱いしないでほしい」と言い、うどん作りは「こんなこと、ぞうさもない」「たいしたことはない」だから気にしないでほしいが、母の口癖となっていましたが、歩行の都度、襲ってくる痛みをこらえるのが、やっとの状況になって行ったのでした。

なんとか、我慢できる痛みなので母は頑張っていたようですがついに我慢できないほどの痛みに襲われるときがおとずれました。

例年、夏休みに里帰りを予て帰郷する妹家族が、楽しい避暑地でのひとときを過ごし、明日帰るので、皆で大河ドラマのセットを見に行こう。

http://www.city.hokuto.yamanashi.jp/hokuto_wdm/html/sight-sec/59690776730.html

と母を誘い出かけた先で、激痛に襲われ、歩くのがやっとの状態になりました。

母は、楽しんでいる妹家族に心配かけまいと笑顔で接していましたが、同行していた私には、足腰が痛くて動けない、しかし、妹家族には思い出をと頑張りました。近くの別荘地帯で、妹家族と楽しそうに写真撮影をしていました。

妹家族が短い夏期休暇を過ごして帰宅した翌日、母は緊急入院でベッドに横たわり、痛みを和らげる治療を受けながら検査を受けることになりました。

母の初体験 MRI (核磁気共鳴画像法)

MRIを体験した母の感想は「まるで棺桶に押し込められたみたい」「あんなにうるさい棺桶はない」で「二度と入りたくない」が検査終了後の名言でした。

担当の外科の先生から、母に説明をするよりも私に直接病状の説明をしたいので時間をもうけて下さいとのことでした。

先生の問診等に対して、的確に答えることのできない母の性格を知ってか、適切な先生の配慮により本人に伝えるよりも、家族に知らせた方が正確に伝わるとの考えでしょう。(母がぼけているわけではないのです、自己流の解釈を得意としますので、心配が発生致します。)

診療が終了した午後の時間診察時間に母の病状の説明を受けました。

診断結果は「腰部脊柱管狭窄症」と診断されました。

http://www.hachiya.or.jp/kyousaku_page.htm

現在の治療は血液の流れを良くすることで痛みを和らげる治療に全力を注いでいますとの説明とともに、この症状は進行性のもので、このまま進行すると最悪の場合は歩行や排便が出来なくなるとの説明を受けました。治療法としては、最終手段としては手術をすることになります。症状の進行とともに色々な治療方法があるので症状に沿った治療を続けますとのことで、第一回目の入院は三週間程度で済みました。この間点滴による薬物治療が行なわれ、二週間過ぎからは入院当初の痛みも和らぎ、杖を使っての歩行訓練で、トイレに行くまでになり、無事退院となりましたが、医師からの説明を思い出す度に、不安があり、母の住む母屋の改造をするために、となりの工務店に相談しましたところ「介護用の手すりには補助金が出るので利用したならばいかがですか」と教えていただき、そうそう役所に連絡を入れて、確認すると、介護認定が必要になることが解り、介護認定の申し込みをと考え、相談窓口で相談すると、杖を使って歩行可能であれば介護認定対象者になるのは難しいとの説明を受けて、介護認定あきらめました。

介護保険の対象には、病状の進行を抑える予防的処置のためには、利用可能対象にないことがわかり、介護の中にある予防介護に対応出来ない現行の介護保険制度に疑問をもちましたが、対象外であるならば、あきらめることにいたしましたが、母の病状の悪化は待ってくれません。

主治医との相談で、悪化する症状の改善に努力して、病状の進行を極力抑えつつ、生活を続けられるように健康管理と治療を続け、手術の選択は最後に残しておく方法を選択しました。また、アドバイスとして、手すりを取付けてはいかがですかとのアドバイスもいただきました。

広がる不安

 私が近くのスーパーに、買い物に出かけたときのことです。帰宅すると杖をついて外に出るのは困難と思われていた母が、庭先に出て車庫の扉を開けている姿がありました。母には、前もって買い物に出かけるので、外には出ないようにと念をおしての買い物でしたが、母は、インターホーンで私をいくら呼んでも答えないので、車庫に車が有るかを確認しに出てきたと言って、私の姿を見つけて怒っていました。これに似たことが度々あり、朝のトイレタイムの時間、トイレに居ると、インターホーンでいくら呼んでも起きてこない、朝の食事を早くしないと、薬を飲むのが遅くなる等々、私の姿が見えないと探す行動が多くなり、私は、何処に出かけるのにも母に念をおしてから出かけるようになりました。ボランティアの会議等が日中に有るときは、母が外に出て転倒したならばの不安にさいなまれ、会議の席上も、いつも携帯電話を受信できるようにしていました。

週2回の通院治療を続けても、一向に症状の改善はなく、むしろ母の行動範囲は、居間とトイレの往復がやっとの状況になり、症状の進行が早くなっているように思えました。この頃、母に家の改造を進言しても、一向に聞き入れようとはせず反対に「病人扱いして」「お前の家ではない、家に傷を付けるな」と私の話はいつも拒否され「はってでも、トイレや自分の身の回りはできる」「家に傷を付けるな」です。しかし、病気の進行は待ってはくれません。

居間に布団を敷き、段差の無い状態にしてすごすことが多くなり、食事も背中に支えをして取るようになり、さらなる体の不調が襲ってきました。

この頃には、入浴も1人では無理な状況になり、手助けが必要となり、入浴や洗濯で、母の入浴は私に取って半日仕事になりました。

この頃母に、家の改造を再度進言し、やっとの思いで改造を受け入れるようになりました。この改造をするのにも、母との意見が折り合わず、激しい毒舌合戦となり、自分の母ながら、なんでと考える事柄が多く、一時は改造を止めようかと思いましたが、病気の進捗が思っていた以上に早いので、母をやっとの思いで説き伏せての工事開始となりました。

工事はお隣の工務店さんにお願いしました。

親子三人で工務店をやっておられ、我が家もこの工務店さんにお願いして、内装をしていただきましたし、母の住む母屋は、お隣のお父さんが建てたものです。親子二代による合作となり、ご子息が手早く工事を行ない、階段、廊下、浴室、トイレに手すりを付けていただきまし。工事は2日間ほどかかりましたが、完成度は高いものになり、インテリアとしてもそん色の無い仕上がりとなり、違和感はありません。









(写真 1958・1959・1960・1962・1964)

それと、杖をついての歩行からバランスを崩すと心配なので、私がホームセンターから取っ手を購入して、室内のガラス障子の取っ手を母がつかみやすいものに交換しました。


(写真 1966)

家の中の改造が一段落し、母の自力での移動もだいぶ楽になったようですが、私の目で見ると、病状の進行が一段とまして、このままでは歩行ができなくなるのではと不安になった矢先、母が、「ご飯を食べられない」・「もう食べたくない」と言うようになり、食事時には母を布団で囲み、体を支えてあげないと食事が摂れなくなっていました。激痛に食事の度に襲われる母、見る見る体力も落ち、移動にも手をかす場面が多くなった時母の口から「病院に行きたい」

母は、通院治療のつもりでしたが、病院で診察の結果は入院に、母のすごいところは、痛みがあっても「自分の入院支度くらいは自分でする。!!!」で、入院の支度の為に一度、我が家に戻り、支度を整える行動力があることです。

家に戻ると、入院支度を整えると言うより、一度家に戻りたかったのが本音のようで、入院の支度はいつでも行けるように、すでに準備がしてあったのですが気持ちが落ち着かず家に戻ったのが本音のようです。

入院と同時に、治療が始まり、血流の向上と、リンパの流れを良くすると思われる点滴治療が開始されましたが、前回のような劇的な症状の改善にはならずに、痛み止めを使用した治療へと移行して行きました。

入院予定期間の二週間が過ぎても症状の改善は見られず、痛み止めを処方されての退院となりました。この頃から、母の口癖に、現代医療は進歩しているのにどうして、私は良くならないのか「手術をすれば治るのでは」と言うようになり、私も、母の体力のあるうちに手術をすべき、と思うようになりました。

当初の予定では、症状を悪化させない温存治療に考えが行っていた私も、手術への期待がますようになりました。退院後も治療の為に通院と考えていたならば、主治医の先生から母の激痛を和らげる痛み止めの治療は、一定期間を過ぎないと難しいとのお話しがあり、投薬の治療になるとのお話しがあり、温存治療が限界を迎えたことがわかりました。

母の痛みの捉え方の変化

当初の母の訴えは「痛い」が口癖でしたが、痛み止めの処方をはじめてからは、痛いに加えて、下肢の片方が寒いが加わり、一回目の8月の入院時に「足が冷たいので靴下をもってきてくれ」から始まり、11月下旬からの2回目の入院時には足が冷たいので、湯たんぽを利用するほどになっていました。

病院内の室温は22度あるのに湯たんぽを利用しなくては、足が冷たくて夜眠れないと訴えるようになりました。12月になり自宅に戻ってからは、2個の電気アンカを利用していましたが、朝起きると2つの電気アンカが行方不明になることが毎日つづいたので、不思議に思っていましたが、良く観察すると、寒いと感じるのは、神経が刺激されて痛みに変わり、痛みが神経を伝わるにつれて「痛みが水の流れるように感じる」と母が訴え、これが寒さからではなく痛みからのものであることがわかりました。このことから、電気アンカの行方不明がどうして起こるのか納得でき、足の感覚神経には異常がないことがどうやらわかり始めました。足の皮膚の神経は暑さを感じて、足を動かして、熱源である電気アンカを足から遠ざけ、片方の神経は寒さを感じさせるので、眠った場合は本能のみの感覚になるので、寝ている間は頻繁に足が動いていることが確認でき、足の機能自体には異常は無いようです。痛みの捉え方が変わるのに従い、母の体力が衰え、体を自分で自由に動かすのが寒さとともに苦痛になって行きました。

*** 寒さ対策 ***

12月になってからの退院で、一番心配となったのは寒さです。

入院中の病室は、いつでも22度くらいなのに、自宅は母が入院してからは、家は暖房を使う人が居ない為に、外気温度が−10度になれば、家の中は5度以下になっていました、退院の日が近付くにつれて、私は、にわか大工さんで家の北側の壁に厚さ12ミリ高さ150センチ幅90センチの枠板用の防水板を打ち付けて、外気と壁が直接触れないようにしました。この効果は絶大で、北側に位置していた洗面所とお風呂とトイレの温度が上がったのを実感したのは、何より、入室時に寒気を感じなくなったことです。それと、各窓にテーブルクロス用のビニールを貼ったことにより、思っていた以上に保温効果を上げることができ、おどろきました。健康の時はあまり気にしなかった温度差。

トイレと、洗面所には電気暖房を置き、母が使用する部屋には、温風ヒーターと、オイルヒーターを置いて、日中は温風ヒーター、夜間は火災の心配が少ないオイルヒーターを使用して部屋を暖めることにしました。

それでも、室内温度が安定しないので、母が使用する居間の窓には内側から梱包用のビニールシート(別名プチプチ)を貼り、その上からテーブルクロス用の透明ビニールを貼ることにより暖房効果を上げました。一番効果が上がったのは、障子にテーブルクロス用の透明ビニールを、画鋲を使って貼ったところ、室温を一気に上げることができました。廊下に面しているガラス障子にも同様にテーブルクロス用の透明ビールとプチプチを貼付けたところ、温風ヒーターを使用すると、20度以上に室温を上げることができましたが、母が使用する居間と廊下の温度差が15度以上になるので、温度差による血圧の上昇が心配なので、居間の室温を温風ヒーターの最小火力で18度に保つことができるようにとプチプとテーブルクロス用のビニール効果でコントロールできるようになりました。夜間は、カーテンを使用して、よりいっそう暖房効果を上げました。また、日中カーテンだと暗くなりますが、特に透明なビニールシートを使うことで居間の明るさを保つことができ、保温効果を上げることと、暗くなりがちな室内が明るくなりました。この、寒さ対策は効果抜群で、母の病気見舞いに訪れた方も、玄関に入ったとたん、床暖房ですか、と尋ねたり、母の居る居間を訪ねて、日中でも外は零度近くあっても、母の居る居間で暖房を使わずすごせる暖かさには驚いておりました。

ただ、暖房効果を上げる為に気密性が上がり、空気の入れ替えには今まで以上に注意が必要になり、ニオイがこもるのを解消する為に、換気をこまめに行なうようになりました。今回の保温対策で、日本家屋の良いところは障子があることで、障子にプチプとビニールを貼ることで、日本家屋の保温効果を簡単に上げられることが解りましたので、母を訪ねてきた方には、母の居る居間の温度を体験していただき、効果を実感し、自宅の寒さ対策に応用してはいかがですかの話題でひとときを過ごすことが多くなりました。

 室内の温度を保つ工夫は、良い結果をもたらしましたが、病状の進行はさらにひどくなり、居間と廊下の温度差を考えると、夜間のトイレは危険が予想されたので、強制的にポータブルトイレを使うよう母に言いました。

最初は、嫌がっていましたが、移動の苦痛を考えると、自然な形でポータブルトイレを使うようになり、寒さからの苦痛を和らげ、転倒する心配も無くなり安心して、休むことができるようになりました。また、当初気にしていた匂いも、消臭剤の効果で問題なく解決でき、母のいる部屋は最適な空間になりました。しかし、寒さとともに母の病状の悪化が進行して行き、新年を迎えるのがやっとの状態になり、病状の進展しだいでは、緊急入院も覚悟しました。

1月に入り、病院開院とともに病院を訪れ、診察を受けると再度緊急検査を受けると、今まで行なってきた治療方法は限界なので、最後の治療手段として考えていた山梨大学医学部付属病院の頸椎外来を受診して、さらなる治療方法を検討することになり、紹介状とともに通称、山梨医大病院を訪ねました。紹介状から担当医に直接診察を受けることができ、再度のブロック注射を実施してみて、経過を観察し、結果次第では手術を考えることになりました。

つづく

▲上に

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