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我が家の介護日誌 第三章
(山梨大学医学部付属病院へ)

 1月に入り、病院開院とともに病院を訪れ、診察を受けるともに再度緊急検査を受けると、今まで行なってきた治療方法は限界となり、最後の治療手段として考えていた山梨大学医学部付属病院の頸椎外来を受診して、さらなる治療方法を検討することになり、紹介状とともに通称、山梨医大病院を訪ねました。

この頃には、母の病状は、歩くことはもとより、座ることさえも苦痛になり症状の悪化を予期しいて、用意していた車椅子での移動となっていました。


(写真 1961)

また、当初介護認定をと市に問い合わせをして、二度ほど却下されましたが、母の症状の悪化とともに、再度介護認定を受ける為の申請手続きを致しました。

介護認定作業に係る保健婦さんや介護支援サービス関係者にも連絡して介護体制を整える準備を同時に進めました。

山梨医大を訪ねた日は、自宅付近では雪が降り、慎重に車での移動となった為に外来受付窓口が閉じると同時に受付に到着したのですが、係りの方の配慮により、頸椎外来を無事受診することができましたが、一番最後付近での診察となった為に、待つ時間が長かったのですが、行きつけの地元の病院の外来待ち時間と比べると、長い時間とは感じませんでしたが、母は、痛みに耐えきれず、車椅子から待合室の長椅子に移り、横になり激痛に耐えていました。

持参した紹介状から担当医に直接診察を受けることができ、母の現状を確認しながら今までの治療経過を確認し、持参したMRIの写真から、神経ブロック注射を実施してみて、経過を観察し、結果次第では手術を考えることになりました。しかし、手術は入院予定者が順番待ちの状況で、現状では5月以降になるとの説明を受けました。また、手術の説明を受けたさいに母の持病から手術になったとしても、通常行なわれる固定方法は母の体内に入れてある治療医療器具のために感染症の危険があるのでとれないとの説明があり、母の骨密度の状態に期待することになりました。

自宅から、神経ブロック注射する為に山梨医大まで通うのは、母には体力的に無理があるので、山梨医大からの医師派遣病院となっていた、いつも通院している病院に派遣されている、山梨医大の先生を母の診察の場に同席していただき、医師を直接紹介していだき、指示をその場で伝え、紹介された先生が神経ブロック注射治療を行なってくれることになり、通院による負担と不安を軽減することができほっと致しました。治療開始時に注意事項として、神経ブロック注射の治療の為に、今まで服用していた血液の流れを良くする為に使用していた薬の服用を止めることが指示されました。神経ブロック注射治療による出血があった場合、血液が凝固するのを助け、止血力を高める為と説明を受けました。ただし、薬の服用を止めることにより血栓が発生する恐れがあることも説明していただきました。すでに処方されていた薬から該当する薬を抜くのは高齢者や視力の弱い人には難しいので、薬局に持って行き処方されている薬の中から該当する薬を抜いていただきました。治療開始二週間前から、薬の服用を止めて、いよいよ神経ブロック注射による治療がはじまります。医師からブロック注射の注意事項に付いて教えていただいた時に、医師から母に問診で、過去にブロック注射を受けたことがありますかと問われ「わからない」と母が答えると、注射を打った時に飛び上がるくらいの痛みを感じる注射を受けたことがありますか、と問われ母は「注射は嫌いで、いつも飛び上がるくらい痛い」と返答、すると、今までに忘れられぬほどの痛みや衝撃を受けた注射を打ったことがありますか、と繰り返しの質疑を繰り返しの「押し問答」医師はめげずに安全を確認しながらブロック注射の安全確保に努めておられました。

もともと病院嫌いの母のこと、医師の問診に対して自分の言いたいことだけ行って、問診内容については理解しようと思っているのだが、わかりやすく説明しないとわからないと言う始末。結局通訳として私が例えて伝えるはめに。

年寄りを相手に問診する医師の根気強さには、感心致します。

それと、日ごろから年寄り相手の問診を繰り返している経験からくる技には感心するとともに、症例や実務経験を積む為にも大学病院からの派遣医療制度の必要性を実感するとともに、ボトムアップ医療の必要性を再認識致しました。

第一回目の神経ブロック注射

母が「不安なのでついてきてほしい」と言ったので、治療するX線室前までついて行くと、多くのスタッフが準備をしており、私の付き添いはここまで、後は看護師さんにおねがいして、X線テレビ室から退出。治療時間は30分くらいでしょうか、治療が終わり、容態確認の為に処置室で落着くまで安静に過ごして自宅に戻りました。治療後の効果は、痛みはそれほど感じなくなったが、足の中を水が流れる足がしびれるようだと訴えるとともに寒いが加わりました。痛みが水の流れに変わったのを明確に感じるようです。

神経ブロックは3回に分けて治療をすることになっていましたので、一週間ごとに近くの病院に通院して、行ないましたが症状は一向に変わることは無く、3回目の神経ブロック注射を受けた頃には、当初のブロック注射を受ける前の症状に近いものとなり、母の体力が急激に落ちて行きました。

母が歩行困難、さらには寝たきりになり、12月、1月と続けて介護認定の申請に奔走していたが、すぐには認定されず、母が全くの寝たきり状態になってしまった。

この頃、介護認定の申請が受理され、認定が確定し、介護保険の使用が可能になりました。早速、ケアマネージャーに介護用品使用のプランをお願いするために訪問していただき説明を受けると、必要な物は自前で全て用意がしてあり、介護ベッドと、入浴サービスが使用可能なことがわかりましたが、多くの人手を必要とする入浴サービスは、母が嫌がり、従来どうり、私が行なうことになり、介護認定は受けることができましたが、介護サービスは未使用のまま、治療がつづきました。

3回目のブロック注射を受けた後の一週間後の診察で、症状の改善が見られないので、手術の検討をすることになりました。当初の診察では、順番待ちになっているので5月頃でないと手術は無理であると、頸椎外来を受診した時に教えていただいていたので、すぐにでは無理であろうと思っていたならば、受診から数日後の夜、母を寝かしてから、私の部屋に母から呼び出し、何だろうと思って急いで母の部屋に、夜間ではあったが山梨大学医学部付属病院から入院の予定がとれたから入院の用意をして、予定日に入院するようにとの医大からの電話、一瞬キツネにつままれたような感じで、電話を受けて、翌日、私からもう一度、山梨医大に確認の電話を入れると、担当の関係者から必要事項と入院時に用意するものを教えていただき、急遽、入院準備となりました。

入院準備

山梨医大付属病院の頸椎外来を初めて受診する時に、母の勘違いから入院準備を整えて頸椎外来を受診したのを思い出しました。この時、地元の病院の先生から紹介状を書いていただいてあったので、母は紹介状があればすぐに入院できると思い込み大騒ぎをしたのを思い出しながら、昨日教えていただいた入院時に必要な物と、手術時に必要な物を揃えて、大急ぎで入院準備をしました。

入院当日

受付で入院手続きをすると、大量の入院資料ともに病室に入るようにと指示され、病棟へ、病棟で、ナースステーションで入院の受付を確認すると、すぐに病室へ、病院着に着替えたならば、医師の迅速な配慮により、母は直ちに手術に必要な検査を受ける為に検査室へ、残された家族に対しての医師による説明が始まりました。資料として「入院診療計画書」「手術・検査・治療法等 診療行為同意書」「輸血に関する同意書」に署名が求められ、残った私は、手術担当の医師から、手術にあたっての注意事項や危険度、諸々の問題について、説明を受けるとともに、質問にも答えていただき、手術にあたっての不安要素を軽くしていただきました。




(資料 8021・8022・8024・8025 ) 

手術のリスクについての説明は、2時間にわたって説明を受け、説明が終わった頃、母が検査を終了して私より先に病室に戻ってきました。私は、ここで初めて長い時間にわたって、手術の説明を受けていたことを知りました。病室に戻り入院時に渡された「お知らせ」「危険物の持ち込み禁止について」「特別室(差額室)のご案内」「入院される患者さんへ」「入院患者さんのご家族・面会の皆さんへ」「5東病等入院のご案内」全10ページの資料確認と付き添いはいそがしい。駐車場の利用に関してのパスカードの利用について等々と看護師による聞き取り調査それと、各セクションの担当医師による病室での説明等と私のすべき仕事が終わったのは、母の夕食がおわり、明日の予定にある麻酔科の説明に時間に間に合うように、病院に来ることを確認して、入院第1日目が終了致しました。

入院2日目

本日の予定、麻酔科の先生の説明を受けることと、明日の手術の準備と、必要な身の回り品の調達。院内にあるコンビニへ、よく品揃えしてあると感心。
あれやこれやしているうちに、麻酔科へ説明を受ける時刻、病棟内から診察棟へ車椅子で移動、通院時に活躍した自前の車椅子が大活躍、病院内にも沢山あるのですが、母の通院と病状の進行を考えて自宅で用意しておいて、良かったと思いました。


(写真・資料 1961・8026・8027 )

麻酔科の説明が終わり病室に戻ると、担当の看護師さんによる問診です。必要事項による確認の説明等、母の普段の生活環境の聞き取り調査、看護プランの確認等目紛しく手術に向けた時間が過ぎて行きます。あっという間に夕方に、そこへ主治医である前川先生による明日の手術に関する説明があり「最前を尽くして手術に望みます」の言葉と笑顔に助けられ、一安心。私は、忙しく動き回っていたので、担当の看護師さんのお顔を覚えることが出来ず誰が誰だかわかりませんでした。

(同じ白衣に、同じマスク、おまけにほとんど同じ髪型、その他にも交代勤務で、よく動き回り、働き者の看護師さん、記憶力の悪い私にとって至難の課題)

看護体制の説明があり、夜間は多くの患者さんを少数の看護師さんが見守るので、手術が終わった後の看護に付きそうか迷っていたならば「モニターで確認していますから」の言葉で、ベッドの上にテレビカメラがあり、ナースステーションで病室の様子を確認できることを初めて知りました。音声は、インターホンで確認しますが、病室の様子を確認できるのには家族としては、心強いことです。

そんな説明を母にしながら、明日の手術に備えて、良い子で夜を過ごし、朝になったなら手術「まな板の上の鯉」でおまかせするしかないと、母を説得して、落着かせるとともに、母の妹に来ていただくように連絡して、私の妹にも来てもらうから安心して夜を過ごして下さいと納得させ、自宅への帰路につきました。

(最短距離で片道42kmマラソンドライブ、あせらずゆっくり帰るのだ)

手術当日

前もって急遽、手術の順番変更を知らされていたので、手術開始前に、母の妹、叔母夫婦、私の妹夫婦と、私が手術前の母の病室に全員集まることができ、不安な母を励ますことができました。それと、主治医の前川先生の説明で「手術時間が延びる場合は、やれることは全てやっていると思って下さい」の自信に満ちた言葉と、手術に際しての説明のときに、この種の手術を5年間で300症例以上実施しているので安心して下さいの説明があったことを、母を心配して集まった皆に話しました。

手術の時間となり、母は移動のベッドで手術室のある階まで移動、私たちはエレベーターの前で、母に頑張ってと見送る。あとは、先生方に御任せすることしかできないので、手術終了予定時間まで悶々と過ごすことになりました。

とりあえず、昼食を摂ることにして、食堂へ、しかし、何を食べたのか、後で思い出そうとする、思い出せません。当初の手術終了予定時間を過ぎても、看護師が母を迎えに行く様子は無く、淡々と時間だけが過ぎて行き、前川先生が言っておられた「神経を圧迫している病巣は全部取り除きます。取れる部分は全力を尽くします」の言葉を信じて、過ぎて行く時間を、不安とともに過ごしていると、当初の手術予定時間を1時間あまり過ぎた頃「看護師さんが迎えに行ってきます。無事終了しましたよ」と病室やデイルームで待つ私たちに教えて下さいました。

母の帰還

母に沢山の管が付いて戻ってきました。六本の管と、酸素マスク、驚いたことに近頃の麻酔は、覚醒と眠りをコントロールできるようになっており、手術の切開や切除から発生する痛みを麻酔がカバーし、激痛から患者をまもり、体力低下を極力抑えるように麻酔薬をコントロールして患者に投与し、意識レベルを確保することにより、手術直後の痛みに襲われているはずの母と、皆が会話することができました。この会話を後で聞いてみると、全く覚えていないと母は言っていました。まもなく消灯と言う時間に、病室に3例目の手術を終了したての姿着のままで、前川先生が笑顔で姿を見せ、切除した部位をフイルムケースと同じくらいの容器に入れて「今までに余り例のない大きさの病巣でしたが、このように全て取り除きました。記念に持ち帰りますか」と聞かれましたので「何かお役に立てるのであれば、利用して下さい」と返答すると、体から取り出した病巣はすぐに腐敗することを教えていただきましたので、病院で処理を御願いしました。その様子はまるで、テレビのコントのひとこまのように流れて、手術が無事成功したことによる安堵感が病室を包んでいました。

病室で手術の経過と術後の看護に付いて説明をしていただき、病室にいた皆が安心して、それぞれ帰宅の準備に、私は、母の経過をもう少し見守ってからどうするか決めることにいたしました。私も局部麻酔をしての手術を何度かしましたが、その度に激痛を我慢する苦しみを体験し、ベッドをのたうち回りましたが、母は全くと言って良いほど、良い子で静かに眠っています。時折目を覚まし、手術は終わったのかと聞き直す程度で、ベッドで静かにしているのを見て、昨今の麻酔の技術発達には驚かされます。一定時間の感覚で覚醒し、しばらくするとまた眠る感じのリズムで落着いているので、手術終了から6時間が過ぎたので後を看護師さんに御願いして自宅に戻ることにいたしました。自宅に帰ると、すでに翌日になっていました。

手術から一夜明けて

朝早くに、母の病室を訪ねると、酸素マスクをはずした母の姿がありました。
私が驚いていると、回診の時に先生が説明して下さいました。「現在使用している麻酔は、非常に強いもので、一定の時間間隔で投与しているので患者さんには負担が軽くて、覚醒もしながらゆっくりと醒めて行きますので、患者さんは痛みを強く感じることがなくて済みます。」の説明があり、明日からは、普通食になると聞いて、またまた驚き、現代医学と医術、医術機器の発達にはただ驚かされるばかりです。まだ母の体には数本の管がつながれていて、背中の切開部から出血を取り出す管から時折、排出されるのが確認でき、ここでも驚かされましたが、先生の説明では、容器のこの部分までは出血しますが、それ以降は止まります。止まったならば管を抜きます。との説明もあり、にわかには信じるまでには行きませんが、信じます。回診時の問診の時に母の意識がハッキリとしており、驚いていると、激痛のため動かすことのできなかった、足首を母が医師の指示に従って、動かしているではありませんか。またまた驚き、術後の痛みと足の痛みが混同され母はどの質問に対しても痛いと答えていましたが、手術は成功です。経過が楽しみですと先生が微笑んでいたように私には見えましたが、母は「自由に手を動かしたい」と管が付いている手を動かそうとして、周りにいたみんなが、冷や汗ものでした。

回診が終わり、落着くと、ここからが、母の楽しいところです。

付き添っている私に、あれやこれと注文を少しずつ増やして行きます。

母を心配した、叔母夫婦と従妹が連日お見舞いに来てくれます。

叔母夫婦も、母の快復ぶりには驚き「もう話せるの」よかったねと言葉をかけて安堵して、帰られました。私は、母の担当看護師さんとの連絡がうまく取れず、いつも行き違いで、メモでのやり取り、母に必要だから用意するように看護師さんに言われたので、メモをもらったから、見てくれとテーブルの上、なるほど、もう普通食になるので歯磨きセット、等々、それは用意したはずなのだが、荷物の中に隠れて探すのに時間がかかり、探し終えた時には、私は、帰宅時間になっていました。

術後2日目

私が病室に行くと、体についていた管が少なくなっていました。その分体の自由が利くようになった母から、食べ物のサイソク、もうじき普通食、何もすることがないので退屈だ、と言いながらまだ麻酔の点滴が付いていて、うつらうつらの状態があるが、時計が欲しいと要望。ここに居ると時間がわからない。目覚まし時計を持って来てくれ、あれが一番見やすい。などと言っていると、母の友人がお見舞いに来てくれた。よく聞くと、同じ病院の下の階に入院しているとのこと、母の手術の成功を自分のことのように喜んでくれた。母が水を飲みたいと言ったので、ペットボトルやコップをと思ったが、よく考えればまだ体にチュウブがあり、動くことが出来ないので、現代流吸い飲み、ペットボトルのフタにドリルで穴を開け、ストローを差し込んだものを2つ用意して、母の吸う力に合った太さのストローにしました。これって、多少落としたりしても、ひっくり返しても漏れないので両腕が自由になるまで重宝しました。ここのところ、会議やなんかでいそがしく、病院にいる時間も限られ、瞬く間に次の予定時間に、病院までの往復時間が私の憩いの時間に。

手術後3日目

病室訪問、体に取付けている管が全部外れるとのこと。麻酔から解放されて、母の要求もハッキリして来て、果物とお菓子を届けると、身だしなみが気になるのか、身の回り品を届けてほしいと言うので、用意していて思ったことは、確か入院の準備を整えている時に全て必要な物を用意して、持って来ているはずだったのですが「見当たらないと母が言う」不思議に思いながら、身の回り品を整えて届けると、同じ病院に入院中の母の友人が見舞いに来ていたので、母の気持ちも、こころなしか明るくなったようだ。帰りに御礼かたがた母に変わり、母の友人の病室を訪ねて、母をまた訪問していただけるようにお願いしながら帰路につく。

手術後4日目

食事も普通食、これと言って大きな激痛に教われることもなく、体に付いていた管もとれ、順調すぎるほどの快復ぶりを見せ、歩行訓練に向けたリハビリ予定が組まれ、看護師さんが、誰が誰かがわかるようになると、自然と看護師さんとの会話も増え、他の病院看の護システムと、山梨医大の看護システムの違いが歴然と母にも認識でき「看護師さんはいつ休憩を取っているのだろう」「休日はあるのだろうか」と自分のリハビリよりも、機敏に動き、いつでも連絡用の電話を持ち歩き、病室から病室へと的確に移動し、個々の患者のワガママに対応している看護師さんに感心していました。私も、この頃担当の看護師さんと入院から退院後の生活環境に付いて、打ち合わせをする機会があり、退院後のケアーまで考えて退院計画を立てることを初めて知りました。母の入院前に介護認定を受けていたものですから、退院に備えて、ベッド、歩行器、など必要と思われるものを現在手配していることを伝えて、退院計画書を作成していただき、自宅での歩行可能な状態になりしだい、退院することになりました。母はもう退院に向けて、トイレ訓練を初めて、昼間は車椅子でトイレまで移動し、夜間は危険なのでポータブルトイレを用意するまでになっていました。なんで病室に重りがあるのかたずねたら、ポータブルトイレが軽いので、母が体重をかけた場合に転倒する危険があるので重りで押さえるために置いてあることがわかりました。病室では、自宅にあるポータブルトイレのように大きなものは使用することが出来ないので、パイプ椅子のようなポータブルトイレになっていることを初めて知りました。それと、母のワガママが始まるのではないかと心配していたところ、お隣さん、母より少しお年を召しておられた方が話し相手になっていただき、良い子の患者さんで看護師さんにほめられたようです。

後で知ったのですが、今話題の「モンスター患者さん」おられるようで、回診時に大きな声で、不満をぶちあけていたことを母から聞くことができました。確かにチューブが体に付いていると、邪魔になるし、ちょっとした扱いで痛みも発生し、苦痛が広がるので、看護する側と看護される側が協力して、取り扱いに注意しないと意思の疎通がままならない場合は、体力のある患者さんほど「モンスター」になりやすくなり、トラブルの発生原因になり、看護する側が被害者になることが多いのです。看護される側は、病気により弱い体になっているので、本人はワガママだとは思っていませんし、現状の苦痛をどうにかしてほしいのと、気分転換と言う言い方は変ですが、自分の主張を通したくて、少しでも精神的優位に立ちたくなるようです。そんな行動を目にしていた母は、こんなことを言いました。点滴をしてもらったのだが、うまく血管に針が入っていないらしく、点滴液が漏れてしまい腕が腫れてたのでナースコール「良い子にしていたが、針に嫌われてしまった」と言って看護師さんを呼んでやり直してもらったと言っていた。母の血管は細く注射針を嫌い逃げてしまうので、どこの病院でも起こることなので本人は、こんなことはなれたもの。母の名言は、看護師の皆さんに伝わり、誰が処置したかと問われても、口に出すことはなく「みんな同じ格好をしているのでわからない」で通したようです。

母の機転が利いた、トンチ回答、中々名言のようでした。起用不器用があり、点滴の針が血管を外れてからは、ベテランの方が対応するようになったとのこと、母は、決して、名前を出すことなく気に留めることもなく「慣れないうちはよくあること」と、言っておりました。看護師の皆さん患者さんは皆さんを頼りにしています。

病魔に冒されているとどうしても被害者的意識を持ちやすいのです。ちょっとした言葉遣いでも、患者さんは一喜一憂します。医師になればさらに重要になります。

看護師さんは、医師のアンテナであり、医師の手足でもありながら、センサーでもあるのです。医師は、看護師と言うアンテナやセンサーから得られる情報や感覚を理解し、患者さんに対処しなくてはならないので、常にアンテナやセンサーの感度を向上させて、医療にとりくまねばならないので大変な仕事であり、人間的に感情を理解し、モンスター患者さんにも対応しなくてはならないのだなーと思いました。

「モンスター患者」さんに、真っ先に対応しなくてはならない看護師さんは、往々にして、医師と患者との間に挟まれ、極度のストレスを貯めることになりますので、体調管理には十分注意する必要があるのです。健康第一です。

今回、母が入院から手術までお世話になったことで、医療事故が何かと騒がれる昨今ですが、患者や患者家族に対して、治療方法やリスクを正しく説明し、理解してもらうためにも、看護師の仕事の重要性が高く、医師と看護師の連系が密接にとれていて、初めて適切な看護体制になるのだと感じました。

病院が大きくなるとチーム医療の大切が、少しは理解できた、この一週間でした。

つづく

▲上に

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