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我が家の介護日誌 P-27 (最終回)

浅川太陽光発電所
所長 浅川 初男

朝、母のショートステー先の介護施設から電話、明日帰宅の予定確認 ?
母が朝食後、少量であるが嘔吐したと、連絡があり、対応をどうするかとの問い合わせ。現状は元気で、安定しているとのこと。
明日帰宅なので、安定しているのであれば、様子を見ることにした。
その後、連絡もなく、夜半になり、再び母のショートステー先から連絡
夕食後、体温が上がり、対応をどうするかとの問い合わせ。
朝一番で、迎えに行き、そのまま病院に連れて行くと連絡して、
朝を待って、母を迎えに。
迎えに行くと、車椅子でぐったりとして玄関ホールに降りてきた母。
昨日、母は、朝食を少し吐き、心配したが、昼食時には、しっかり取り、その後も安定して、過ごしていた様子、夕食後から体温が上昇、とのこと。

先日、家からショートに向かう時は、何事もなく、迎えの車に乗り

(今年も咲いたね)
いつものように、あまり話す事もなく、出かけて行った母。

今は、車の後部座席に、座るのもやっとの母、話しかけても、弱々しく頭を動かすだけ。 大急ぎで、病院に。 
連絡は前もってしてあったが、凄い混雑と、急患
やっと母の順番。     入院即決定 !! 。
医師から、 高年齢でることを考えると、何が起きても不思議はありません。
「いつでも連絡できる体制をとってください。」と、念を押されて、入院手続きと、兄妹に急ぎ緊急入院の連絡。
妹から、こちらの体制が整うのは、急いでも土曜日になると。
今は、病状が落ち着いていますから、できることを先に、ご家族での付き添いは心配ありません。と声かけられ、帰宅して、必要なものを用意して、翌朝、お金を下ろしに銀行に行き順番を待っていたなら、 緊急連絡 !! 。
容体が悪化とのこと、急ぎ母のもとに。医師から、延命治療を希望しますか ?
前から、兄妹で決めてあった。父の最後を延命治療で看取った経験から、母の生命力と体力に期待しての、出来うる限りの治療に切り替えて、時を見守ることに
母の容体は、自発的な呼吸のほかに痰が、喉に詰まり吸引を必要とする状態に移行していた。最初は、痰の色をしていたが、入院3日目ごろには、痰と一緒に血液が混じり、見守る私も苦しくなってきた。ここで兄妹が到着、昼夜2人で付き添うも、疲れが溜まり、病棟看護師の勧めもあり、夜間の付き添いは止めることに。父の時は、若かったから1週間付き添っていても体が何とか持ったが、今回は、2日目で、足腰が立たなくなり、持病のせいか全身に浮腫が来てしまい、病棟看護師からの注意を受け、朝から夕方までに切り替えました。
兄妹が来たことで、安心と、今後について、考える時間ができ、準備をする時間が持てたので、父の墓前で親戚と相談をしていたならば、危篤状態になりましたとの連絡。急いで駆けつけると、弱々しい呼吸の母が、人生90年余り、母は、何を思って頑張って来たのか、今は、最期を静かに看取るだけ。
手をとっていた私の手に母の温もりだけが、伝わっていた。
ふと、母が「逝くよ」と声をかけてくれた気がした時、静かに呼吸も止まっていた。入院から1週間で逝ってしまった母、何も出来なかった。
最後は、私たち兄妹と、親戚に看取られて静かに逝った。
介護はできる限りやったつもりなのに、なぜか心にかかるものが。
「母が亡くなった。」 次の瞬間から 葬儀の準備への移行。
病院から葬儀屋さんへ連絡。これで、自宅までは、母の亡骸を連れて帰宅できる
そういえば、父の時は、病院から私がマイカーで、亡骸を連れ帰った。
今回は、母方の葬儀を全部取り仕切っていただいた、葬儀屋さんを手配した。
実は、母には内緒にしていたのだが、先月、母の妹のご主人の葬儀を行ったばかりで、母には、葬儀すら教えてなく、精神的にショックが強いと、していたのに
今回の、母の緊急入院の知らせを叔母に伝えることを考えた時、直接知らせず、従姉妹に、それから伯母へとワンクッション置いて、知らせた。葬儀まもない、伯母は、ご主人を送ってから精神的に疲れ、娘が付いていなくては、衰弱して危険な状態であった。そんな状態で、母の見舞いに来てくれた伯母
まさか、自分の姉が、こんなに早く逝くとは、見舞いから数日で。
母の入院中は、天候の変化が目まぐるしく変わり、晴れから急に吹雪に、曇りから雨からの雪にと、天気の激変の激変がすごく、母の見舞いに来てくれた方々の
帰路を心配する日々が続いていた。

一瞬で白銀の世界
母が亡くなって、葬儀の準備期間中と葬儀は天候に恵まれ、斎場と葬儀場の移動の時、今季初めて、桜が咲いていることに気がついた。
葬儀は、無事終了し、翌日、寺参りに行き、初めて桜が綺麗だと感じた。

この日の、夕刻から天気が崩れ、翌朝は雪が降るかもしれないと、天気予報で言っていた。春の天気は危険なので、今夜帰ると、妹、四十九には、家族みんなで来るので、それまで母をよろしくと、急いで帰宅してもらった。翌朝。

早朝から、降るは、降る。春先のどか雪。瞬く間に、積雪10センチに、普通タイヤで葬儀に来てくれた皆様が無事に帰れたことに感謝しました。
春の雪は、沫雪、午後からは日差しも戻り、夕方には、道路の雪は、消えていた。
幹線道路は、積雪のため、渋滞や事故が起きていた。母の葬儀を無事に送れたことに改めて感謝した。


桜が咲く度に、母を思い出す時を、過ごすことにこれからはなる。
と、思っていたならば、1ヶ月もしない内に、今度は、妹側で葬儀が。
我が家の親族は、3月、4月、5月と連続で、それぞれ葬儀に参列することに。

一番悲惨だったのは、妹の孫、「もう精進料理は、嫌だ!! 」と

その悲痛の叫びの一報を、聞いていたので、四十九は、洋食にしました。

今回、何気なく選んだ会場で、嬉しい
ハプニング
40年ぶりの知人に会うことに。

知人は、予約の時点で、もしや と
当日の確認住所で、間違いなし。

四十九の母を忍会にサプライズゲスト   母の巡り合わせ!!
しばし母を、忍びながらの兄妹揃って、40年ぶりの再会となりました。

実は、この時、妹のご主人は、我が家でダウン!! 毎月の葬儀と私と同じように、自宅で母親の介護生活を送っているので、ついに疲れが爆発。

介護生活と、通常の生活の両立の難しさを、改めて知ることになりました。

母の入院中は、できるだけ母に付き添っていましたが、そんな中で、聞いた話
私どものように、入院中付き添っている家族は、今時は珍しく、殆どの家族は、急変があった場合のみの連絡か、亡くなってから来られると。
社会が常に働かなくては、ならない状態にあり、家族が付き添う時間すら取れない時代なのか ?
各家族化なのか ?   私は、個人事業主で年金暮らしだから ?
         何か釈然としない。

母は、昭和の戦争経験者、戦争の怖さを教えてくれた母、平成時代を過ぎ、
新しい時代を迎える目前で逝ってしまった。

過去を懐かしむなら良いが、過去をいつまでも引き摺ると未来は遠くになる。
新しい時代に、子供たちには、時代にふさわしい社会を作って欲しい。
葬儀後、母の残した、財産は、令和、新時代に相応しい活動ができるように
次の世代に、引き継ぎをして行かなくてはと思った。

母の葬儀が終わり、母の遺産の母屋を点検したところ、至る所にガタが来ていた。引き継ぎどころではなく、早急に補修が必要となり、新盆に間に合うように
緊急工事となりました。遺産を引き継ぎ、管理をして行かなくては。
床下が腐っていた。

お隣さんの、大工さん。親子二代にわたっての息子さんに治してもらい、何とか新盆のお客様に不自由を欠けずに済みました。今回の点検で、一階部分のほぼ全体の床下と、床のやり直しが必要であることが分かり、築40年を過ぎると、湿気のために、痛みが来ることが判明、今度は、母屋の介護をどうするか、自身の養生と、母屋の養生。年金暮らしの身にまた一つ責任が !! 。

よく、つづいて、色々起こるものだとつくづく思った。
母の介護が終わり、家中を点検したならば、母の介護用品の残りが、多数あり、(ストック分(1ヶ月分)と未使用品と残りを含む処理をどうしようかと、考えていた時、親戚が、通所していたデイサービスの事業所に寄付した。と教えていただいたので、事業所に確認して、利用していただく事に。
母が利用していた車椅子は、妹のところに。その他の大物は、レンタルを利用していたので問題はありませんでした。

母の大いなる遺産は、母屋の各部屋に残された生活用品(殆ど使用不可)の山、
母屋の床の異変に気が付いたのも、この生活用品(不用品)を片付けていた時でした。不用品は、ゴミ袋に入れて処理したのですが、市の指定ゴミ袋が300袋入りの梱包が、不燃物を含めて3梱包。殆んど使い切ってしまった。
地区のゴミステーションの空き具合を確認しながら、搬出しました。
その他、家電製品・箪笥等あり、こちらは、市内の指定業者に処理をお願いいたしました。
新盆に帰省した、甥・姪、孫が言うには、初めて各部屋がつながっているのを見て、「一つの空間になる作りだったのかと」、驚いていた。
それほど、各部屋は、物が堆く積まれ、足の踏み場さえ無いほどの空間であった。
ゴールデンウイークや夏休みを利用して、(ゴミ屋敷?)を妹家族より、
早くから帰省していた妹と、2ヶ月以上かけて清掃した。
母の時代は、各家庭で冠婚葬祭事を行っていたので、いろいろ必要だったのであろう。沢山の食器類や寝具、しかし、湿気が入ってしまった寝具には参った。
綿が重くて、大変。
いったい、何台、運び出せば終わるのかと思うほどの、処理を行った。

一つの時代が変わる(一つの世代が変わる)と嗜好品や寝具等は、世代ごとに代わるので、処分する事になるのを、今回、身を持って経験できた。

私も、身の周りを、次の代に苦労かけないようにしなくては、と思った。
さて何処から、始めれば 、 が  、・・・・・・・。

今回、母の介護に際して、20年の長きにわたりサポートして下さいました
地域医療関係各機関・ケアマネージャー・ヘルパーさん・介護施設・デイサービス・訪問医療・訪問看護の各サポートに、心より感謝申し上げ、
我が母の「我が家の介護日誌」を閉じる事にしました。

介護現場は、ついつい孤独になりがちです。多くの介護支援の手があることを、知っていただき、介護孤独にならぬように
この記事が、介護現場や介護当事者の、少しでも参考になればと、長期に渡って綴ってまいりましたが、今回を、もって、最終回といたします。

ありがとうございました。    親族一同。